不当な差別判決としか言いようがありません。
支援いただいた弁護士のコメント
「最高裁で1年半以上もかけて、その結果がこれかよ」という感じもしますし、わずかこれだけのことを書くのに1年半もかかったということに、この事件の(最高裁にとっての)重さもまた感じます。
結局、何も解決されないままに山内さんの事件は終わることになります。
支援いただいた研究者のコメント:
各紙とも扱いが小さかったですね。ことの重大性に全く気づいていないのでしょう。
貧困とか言って騒いで、ネットカフェ難民がどうとか騒いでいるのに、住居=住所問題では共通していることに全く気づかず、ホームレスなど別問題ということなのでしょう。
昨07年1月23日に高裁差別判決が出たときに、釜パトの仲間による文章を紹介します。釜パトの通信「前略、路の上より」18号(07年夏号)に掲載したものです。今回08年10月3日の最高裁棄却判決は、ここで批判している高裁判決を全面的に受け入れています。
(以下)
山内さん訴訟、大阪高裁の不当判決山内さん訴訟、大阪高裁の不当判決
人は生きている限り、どこかに住まなければならない。どこかに存在しなければならないと言い換えてもいい。
そのことが、今回の判決では否定されたも同然である。野宿者は、どこにも居場所を求めてはならないのだという、差別的な判断がなされたのだ。こんなことを絶対に許してはならない。
いま、釜ヶ崎の解放会館などでの「住民登録問題」が大きく取り上げられている。居住実体の無い者が住民登録をしている、やれ選挙無効の恐れがあるだの、住民基本台帳違反だから抹消するなどとセンセーショナルな報道がされた。3月2日までに消除するという大阪市の姿勢に対して、2月26日から3月2日まで、大阪市役所前で野営闘争がたたかわれ、また一人の労働者が訴訟を起こし、高裁で消除差し止めの判決が出た。消除は3週間の延期となったが、これからも闘いは続く。
そもそも釜ヶ崎で働く多くの労働者は、日雇いで様々な現場に行って仕事をするため、日払いの簡易宿泊所に住んだり、飯場に住んだりしている人が多い。しかし、住むところが一日ごとに変わる形態で働く人たちのための保険でさえ、登録には住民票が必要である。そして、働けなくなって住むところがなくなった人もいる。路上で寝ている人や公園などでテントを張っている人たちの連絡先としても、釜ヶ崎解放会館などは、相談に来た人たちの住民登録を受け入れてきた。住民登録を抹消されてしまえば、選挙権もなくなり、年金も受け取れない、失業保険も入れない、履歴書や契約書などの書類に書くべき「現住所」がなくなる、など、様々な不利益を被ることになる。
住んでいないところに住民登録したら、罪となってしまう。そして、住んでいるところに住民登録するようにと指導される。しかし、いざ登録しようとすると、「そこは住所とは認めません」と拒否されるのだ。
山内さんが訴訟を起こしたきっかけもそうだった。山内さんや他の野宿者が、釜ヶ崎パトロールの会のメンバー宅に置いていた住民票のために、そのメンバーは電磁的公正証書原本不実記載幇助という罪に問われたのだ。山内さんらは住んでいないのに、その住所に住民登録したからというのが理由である。これは明らかに釜ヶ崎パトロールの会への不当弾圧であった。山内さんは、住民登録を北区から抹消されようとしたので、それならば住んでいるところに移そうということで、扇町公園へと異動届を出した。それを北区長が受理しなかったので、不服申し立てをしたのち、不受理を取り消すようにと訴訟を起こしたのである。
大阪地裁では、住所が無いということで、どのように様々な不利益を被るのかを訴え、山内さんが公園に住んでいるという客観的な事実を提示した。それが認められ、大阪地裁では、たとえ公園のテントで占有権は無いとしても、そこに住んでいることは明らかで、住所と認められるので、不受理は違法だとの判決が出た。
しかし、この1月23日、大阪高等裁判所は、「公園内に勝手にテントを建てて住むことは許されず、そこを住所として認めることは健全な社会通念に反する」として、地裁判決を取り消した。
野宿者は住んでいるところにも住民登録できないとされたのだ。
今回の大阪高裁判決は、住民基本台帳法、地方自治法、民法上の住所概念からすれば、公園を住所と認めざるを得ないにもかかわらず、「健全な社会通念」なる超法規的かつ差別的な観念を持ち出し、住所と認めず原判決を覆したのだ。しかも、占有権について争っているわけでもないのに、勝手に占有権が論点であるかのようにすり替えて、認められないとしているのだ。この判決は、ひどい差別文書である。
高裁判決は、山内さんが公園内のテントで継続的に日常生活を営んでいることを認めており、住所として認定されるべきことは明らかである。にもかかわらず、高裁はあえて、「健全な社会通念に基礎付けられた住所としての定型性」なる要件を付け加えた。
それでは、この「健全な社会通念」とは何なのか。高裁は、以下の諸要素を総合的に考慮して「健全な社会通念に基礎付けられた住所としての定型性」が認められないとしている。
第一に、テントが簡易な工作物であり土地への定着性が弱いこと、第二に、住居としているテントに電気水道施設などがなく公園のものを使用していること、第三に、都市公園法上、私人が占用許可を受けず公園内に勝手に住居を設けて起居することは許されないこと、の三点である。
しかし第一、第二の点に関して、どんなに貧困な家であろうと、そこを実際に日常生活の拠点、起居の場とし続けてきた事実を否定することはできない。第一,二を理由として住所を否定することは、貧困者への差別である。
第三の点、占有権限がないから住所として認められないという論拠に関しても、そんなことは争っていないし、高裁判決もわざわざ「占有権限の有無をもって住所の概念を画するものではない」といっている。たとえば知人宅に居候していても、そこに住民票を置けるからである。しかし、判決理由のほとんどは占有権限がないことの論証に費やされており、今回の高裁判決が占有権限の有無をもって住所概念を画していることは明らかである。まったく矛盾したことを同じ判決の中でいうような、でたらめなやり方で、基本的な人権が剥奪されていいわけがない。
貧困な生活は健全でないとでも言うのだろうか。だれが健全かどうかを決定するというのか。そして、健全でなければ様々な権利が剥奪されていいのだろうか?
判決文の末尾で、「大阪市の自立支援策」に触れている部分がある。「不充分なものと評価されるものであろうことは否定できないけれども」と認めながら、「それなりの成果を挙げていることも認めることができる」として、山内さんが「自立支援センターに入居し、同所で住民登録をすることを妨げる事情を窺うことはできない」と断じているのである。大阪市の用意する「自立」しか認めず、それに乗れないなら様々な人権が剥奪されても構わないと言っているに等しい。 また、地裁判決が公園に住む権利を認めたものであるとか、高裁判決が行政代執行による長居公園テント村の強制排除にお墨付きを与えることになるなど偏向報道もなされている。しかし地裁判決でも占有権は認められていないし、高裁判決が出たからといって、強制排除を進める追い風にはならない。不当なことに、強制排除が都市公園法に基づけば「適法」であることは変わらないからだ。しかし強制排除は、都市公園法よりも上位の、憲法や社会権規約違反の重大な人権侵害なのである。どこかで人は生きていかなければならないし、生き抜いていくのだ。
ただ、間違いなく「公園に住むことを認められては困る」という大阪市の意図が、この判決には反映されている。
三権分立の精神を捨て、大阪市を擁護するのみに終始した大阪高等裁判所は、とうてい公正中立な法の番人とは言えない。我々は、強く抗議するとともに、公正な裁判を求めてたたかっていく。(2007年1月)