2005/01/11

寄せ場−公園−路上を貫く労務支配の構造 拡がるヤミ手配・ケタオチ飯場を撃ち砕け!

(*)『飛礫』44号に掲載された原稿です。

寄せ場−公園−路上を貫く労務支配の構造
拡がるヤミ手配・ケタオチ飯場を撃ち砕け!
〜朝日建設争議が問いかける階級的責務〜

松原秀晃 
朝日建設争議団(大阪)/釜ヶ崎パトロールの会/高齢者特別就労組合(準)

★事件の概要
2003年10月6〜7日、山梨県都留市の朝日川キャンプ場で、朝日建設(2003年8月倒産/旧・麻企画)で働いていた労働者3名の遺体が土中から発見された。そのうち2人は釜ヶ崎から路上手配された多賀克善さん(当時51)、横田大作さん(同50)で一人は身元不明のままである。マスコミ報道や労働者情報によれば、実家の娘に「殺される。助けて」という電話の声を残して病院で亡くなった釜の労働者の話、賃金不払いや手配時の約束と違う労働条件を巡って抗議する労働者や反抗的な労働者を監禁用倉庫の中に何人も連行して木刀などで暴行していたとか、他にも埋められている証言があるなど朝日建設グループによるタコ部屋支配の全体像は未だに明らかになっていない。それにも関わらず、身元不明の仲間に対する「傷害致死」と2人の釜の仲間に対する「殺人」容疑での再逮捕・立件で都留署捜査本部は早々と解散した。現在、甲府地裁で行われている刑事裁判は元社長の阿佐吉広(55)以外の元幹部5名に対する論告求刑(2004年6月30日/5〜15年の求刑)が終わり判決公判(9月16日)を控えている。
殺された身元不明の労働者は1997年に「酒に酔ってあばれた」と社長の阿佐吉広(55)から制裁を受け、さらに「反抗した」とボタ打ちされて殺されたと言われている。2000年5月、キャンプ場からの帰りに交通事故を起こした事で阿佐や後藤寿人(48)など幹部連中らから同乗者3名が木刀などで制裁を受け、うち一人は謝罪して解放されたが、多賀さんと横田さんは「阿佐、お前だけは許さん!」「賃金を払え!」と刃物で立ち向かって抗議したため、ボコボコにリンチを受け、ガムテープで体をグルグル巻きに拘束されて車の中に放り込まれ、キャンプ場で絞殺された。
昨今の寄せ場解体−アブレ失業地獄の中、「ケタオチ飯場でも野垂れ死によりはマシ」という追い込まれた労働者の心情を利用して狩り込みボッタクって使い捨て、それに反抗すれば命までもボッタクるやつらを断じて許さない。そうしたやつらの不正に反抗しやつらに殺され土中へ埋められた仲間の無念は如何ほどであっただろうか。その無念を思う時、怒りで胸が張り裂けぬばかりである。

★朝日建設の概況
朝日建設は旧麻企画(97年法人登記)時代から有名なケタオチであった。1998〜99年に山谷や渋谷などで麻企画の労働相談が集中し、日雇全協・山谷争議団や渋谷のじれん(渋谷・野宿者の生活と居住権を勝ち取る自由連合)などによる数回の労働争議を経て、上野や新宿など東京の寄せ場・野宿集住地域などでの手配禁止を通告されていた。
東京で手配できなくなった麻企画は1999年より釜ヶ崎でのヤミ手配を本格化させ、社名を「朝日建設」に変え、専務の牧(阿佐の義弟)、稲村がそれぞれ牧建設(事件発覚後は「エコ・テコアス」と改名)、稲村建設(阿佐逮捕後は都留の朝日建設の飯場を引継ぎ経営)を構え、労働者出身のボーシンであった鈴木は甲斐信建設工業を経営し、朝日建設グループの基礎を構成した。2000年頃より朝日建設の悪名を隠すために釜ヶ崎での手配は「阿波建設」(偽装手配事務所)が担い、ゼネコンが相次いで倒産し建設業総体の就業人口が縮小していく動きに反比例して、山崎建設、山由工業、日昇建設興業、甲信開発興業、飯田梓工業、駿河建設、平成建設、ミナミ建設工業、門脇工業、岡谷第一寮など主に現場飯場を次々に興し、清水建設、大林組、大成建設、奥村組、青木建設、名工建設、鉄建建設、東急建設などそうそうたるゼネコンが元請となっている大型公共工事(学校・病院、リニアモーターカー、公営団地、トンネルなど)と結びつき朝日建設グループとして急速に成長した。
その急成長の基盤は、寄せ場周辺・域外での野宿拠点と公共工事地域とをヤミ手配で結びつけて、暴力装置を背景に組織的賃金不払いと「娯楽室」を使った賃金の飯場内消費をフル回転させてきたことによるものである。この結果、これまで入飯した4000名にのぼる労働者のうち、およそ半数近くは賃金不払いなどで泣きをみていると言われる。

★朝日建設を生み出した要因とその背景
91年バブル経済崩壊による大不況とその不況をもテコに押し進められた「金持ち優遇」「福祉の削減」「雇用の流動化」「低賃金政策」「市場原理に基づく民営化」などの新自由主義諸政策は、90年代半ばから恒常的失業者(低賃金政策の基盤)、派遣や期間雇用などの非正規雇用労働者、制度外に置かれた新たな「無権利日雇」とも言える「フリーター」と呼ばれる若い自由労働者などの不安定就労層とその周縁部においてその構造的矛盾を最も鋭く体現する野宿層の激増を招来し、今に至る大失業時代の幕開けを結果した。94年阪神淡路大震災の「復興特需」を最後に釜ヶ崎に来る日雇い求人もめっきり減り、13500円まで勝ち取った単価も次年度から値崩れし、登録業者の拡散が続いてきた。特に釜周辺のヤミ手配、大阪全域に拡がった駅・公園でのヤミ手配などに業者登録や印紙はおろか労働条件すらまともに示さず狩り込む悪質手配が増加している。こうしたヤミ・ケタオチの拡がりは寄せ場の動向と呼応関係にある。現在、土木建築関係の就労総数は昨年度よりも16%増加しており、政府や経済界で「景気回復」が言われているにも関わらず、釜ヶ崎での就労総数は昨年度の10%減の傾向が続いている。このことは、釜ヶ崎の就労(アブレ失業)構造が「景気の変動」にもはや関係なくなりつつあり、「寄せ場」としての機能が解体に向かいつつあることを示している。
国家・資本は日雇雇用保険制度の解体にむけた意図においても露骨である。バブルの絶頂期には1987年4月末で約24500人を数えた『日雇労働被保険者手帳』(白手帳)所持者が1993年度は12300人へと半減させられた。特掃開始の影響で増加した1994年度の13468人を最後に減り続け、今年は8580人(6月末)にまで「あいりん職安」の手により減らされた。また、大阪府、大阪市、大阪建設業協会は白手帳の一時金(一般に「ソーメン代・モチ代」と呼ばれるが現実はそんなのん気なものではなく、仕事がなく2ヶ月26日間就労という高いハードルを条件とするアブレ金に手がとどかない高齢日雇・野宿労働者にとって年間約35000円という一時金はまさに「生存一時金」である)廃止への画策を恥知らずにも隠そうとはしない。仕事がいくらでもあった高度成長時代の産物である「白手帳制度」は多数が恒常的失業を強いられる時代状況に合わせて改革していくべきであるのに、手帳取り上げや「一時金廃止」に心血を注ぐあいりん職安や大阪府商工労働部をはじめとする労働行政に対する不信は深まる一方である。
手帳を取り上げられた労働者の多くが釜ヶ崎の就労構造から弾き飛ばされ、仕事が少ない中で仕事に就きにくい労働者ほど、朝日建設などに象徴されるケタオチ吸血飯場や生活保護ボッタクリ飯場の餌食になっている。しかも、大阪府商工労働部−労働センターや南労基署、あいりん職安など関係行政機関は、朝日建設のヤミ手配を黙認し、被害を訴える労働者に対して救済するどころかたらい回しをして恥じなかった。このことを考え合わせるならば、重層的下請け構造の下で朝日建設などのケタオチを使い肥え太ってきた建設独占資本の責任と共に、労働者を人殺し飯場に追い込み放置し続けてきた労働行政の責任は極めて重大であると考える。

★「労務支配」という言葉で交差する寄せ場、路上、フリーター
寄せ場の縮小に伴い現役の寄せ場労働者がケタオチ化する飯場へと流動する一方で、登録・派遣労働・アルバイトなどでメシを食うフリーターと呼ばれる若い自由労働者をターゲットに白手帳すら持てない無権利・無保障の建設・雑役日雇労働力として低賃金・重労働で酷使されている(かつて労働者としての諸権利の一切を剥奪された「労務者」としての日雇労働者の姿に重なる)現実が浮上しつつある。中でも1986年労働者派遣法制定は、一般手配に切り替えた渥美組に象徴されるように西成労働福祉センター登録業者(合法手配師)の拡散など寄せ場の空洞化を準備し、「列島全土の寄せ場化」への橋頭堡となった。駅、公園や路上ヤミ手配が野宿層を対象に拡がりつつ、「建設業者」を名乗って職安や新聞・雑誌で求人する人夫出し飯場などの違法派遣の跋扈が一般失業層を対象に拡がっている。
寄せ場労働者に代わる、より安価で重労働に耐えられる若い日雇い労働力として資本が着目したのがフリーターである。「登録制度」を作り、業務請負と派遣業を巧みに操作して工場や倉庫の雑役・手元、引越やイベント会場設営の雑役、ティッシュ配りから土木建築関係までありとあらゆる下請け・孫受け仕事に日雇で従事させている。90年代前半は各主要駅付近のビルにある事務所に早朝から仕事を求めて集まる若い登録労働者の姿が定着し、携帯電話が普及した90年代後半に入ると「明日仕事ありますか?」という携帯電話一本で明日のシノギが左右される無権利・無保障日雇の時代へと突入している。
寄せ場の解体状況の中で、仕事にアブレた登録フリーターのうち親族友人等からの援助の少ない者から困窮して家賃を払えず家を失い、寄せ場を経ることなく路上へと叩き出されている。もはや寄せ場のような「見える(管理された)労務支配」から飯場やビルの事務所、携帯電話などのように個々にバラバラに組み込まれた「不可視な(剥き出しの)労務支配」へと日雇労働の主軸は転換しつつある。朝日建設のようなタコ部屋やケタオチ労務支配への落とし穴はそこら中にあいている。

★タコ部屋的労務支配の原型〜無宿、人足寄場、佐渡金山、アイヌモシリ、ロウムシャ
タコ部屋的労務支配と寄せ場・野宿との関係を我々労働者の脳裏に改めて刻み込むニュースが流れた。浅間山の噴火だ。寄せ場・野宿の現場に身を置く者は誰もが1879年の浅間山大噴火に端を発した「天明の大飢饉」を思い起こしただろう。この大飢饉を背景に米価高騰と不況が蔓延して農民一揆や都市下層での打ち毀しが激化し、江戸や大阪をはじめとする都市に飢餓と貧困に苦しむ「無宿人」が溢れかえっていた。江戸幕府は無宿人対策として「授産・更生」を名目に野宿者を狩り込んで隔離・収容して強制労働させる「人足寄場」を建設した。実際は「寄場からの逃亡は斬首、怠けや命令違反は遠島」という刑罰に支配された治安対策であり、後に佐渡島金山や伊豆離島殖民など国策事業のための奴隷労働力の供給源として機能し、多くの餓死者や病死者を出しながら幕末まで続いた。幕府が倒れ、明治政府が成立した翌年(1869年)に「野宿者追放令」が発布されたのに引き続き、その翌年には「野宿者強制収容令」が出され野宿者は手当たり次第に逮捕・収容され、東北開墾やアイヌモシリ植民地化の礎として奴隷的な強制労働に酷使され殺されてきた。
人足寄場の佐渡島金鉱労働以来、アイヌモシリ植民地化の礎として、またアジア・太平洋人民の記憶に奴隷労働・強制労働をする人々を指す「ロウムシャ」という言葉を刻み込んだ日帝の歴史、戦前戦後一貫して使い捨て自由な労働力として酷使され搾取され続けてきた日雇労働者の歴史等、近世・近代以来のタコ部屋的労務支配とそれを制度的に保障する(むろん制度外に置かれた寄せ場地域外でのヤミ手配をも労務支配の本質面として容認する)建労法体制(1976年制定)が今もなお連綿と日雇・野宿労働者を縛り付けていることを朝日建設による労働者虐殺に見た。しかし我々は、この朝日建設のケタオチ暴力支配の実態を単なる特例として考えるべきではない。建設不況とアブレ失業をテコとして、むしろ労務供給体制はその本質面であるタコ部屋的労務支配をあらゆる場で全面化する過程にあり、そこに対する徹底的な闘争が求められているのである。この朝日建設が象徴的に体現する労務供給体制を釜ヶ崎の基本構造から簡単に押さえておきたい。

★釜ヶ崎の基本構造にみる日雇労務支配と釜ヶ崎暴動−反失業闘争
「現在の釜ヶ崎のあらゆる基本構造は、1961年第一次釜ヶ崎暴動をその出発点としている。釜ヶ崎は暴動から全てがはじまっている」(深田さん/釜日労)
第一次釜ヶ崎暴動は、釜ヶ崎の太子交差点付近で交通事故で重症を負った労働者をポリ公は救出するどころか死体の如くムシロを被せて現場検証を始めたことに対して労働者の積年の怒りが爆発したものであった。以来、繰り返される暴動に対して、従来の労務支配の貫徹のために治安対策を本質とする「あいりん対策」を協議する機関として大阪府・大阪市・大阪府警・大阪市大・総評による五者連絡協議会(五者協)が設置された。大阪府は労働対策(西成労働福祉センター)、大阪市は民生対策(市立更生相談所−自彊館)、大阪府警は治安対策(地方の県警規模を持つ西成署)、大阪市大を牙城とする御用学者は研究提言、総評は日雇労働者の統制・管理をそれぞれ担うとしてきた。1970年「あいりん総合センター」が設立され、それら管理型労働市場と相対方式という先行的実態を「建設労働者の雇用の改善等に関する法律(建労法)」という制度で保障した。
1976年建労法の制定以降、建設日雇労働市場(寄せ場)と労務供給事業(飯場)という建労法体制の二つの側面は、1985年労働者派遣法の制定を経て1991年バブル経済の崩壊から現在に至る大不況・大失業時代への突入とともに分裂・再編が始まった。深田さんは「労務供給体制に捨てられた労働市場としての釜ヶ崎は、既に労働市場としては空洞化され、単に半数の労働者が使い捨てられたのではなく、釜ヶ崎そのものが使い捨てにされたのである」と総括した。そうした棄民状況の中、1992年7月3日、朝のセンターで、手配師の顔付け手配と暴力事件に抗議する「林建設手配車両焼き討ち決起(7・3決起)」を就労過程からの排除に対する労働者に共通する怒りと捉え、釜ヶ崎反失業闘争が開始された。この7・3決起は釜ヶ崎やすべての寄せ場・野宿集住地域での反失業闘争の出発点であり、とりわけ市内全域当時5000人を超える野宿者の存在を背景に、94年第三次反失業闘争の爆発的な高揚(府庁前野営闘争から退路を絶っての非妥協的なセンター窓口闘争→センターシャッター実力開放・センター自主管理→建労法体制の機能崩壊)によって「特別清掃事業」を戦取した。
 特掃(特別就労事業)は未だに55歳以上の高齢者限定であるが、今年の特掃の輪番就労登録労働者は最大の3100人になった。特掃への仲間の期待と希望は高まるばかりであり、「市内全域5000名を超える野宿労働者の闘う力、闘う陣地、闘う組織された物理力(深田さん)」として発展し得る可能性を持ち続けている。2002年「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法(ホームレス特措法)」制定以降の排除・収容攻撃の強化にも関わらず、なお大阪市内には3000軒を超えるテント・バラックの集住地域が存在する。その野宿拠点を基盤とした特掃(特就)を陣地に、階層を貫く本格的・全人民的失業対策要求へと展開することが反失業闘争の主要な戦略的課題である。今年の11月で「特掃10ヵ年」を迎える。今夏、永眠された7・3決起労働者を追悼すると共にこの10年の意味を点検し、その後の展望を大衆的に論議し、新たな闘いを準備していかなければならない。
 
★殺された仲間の怨嗟を継ぎ、朝日建設争議への合流を決議
とりわけ東京での麻企画争議を日雇・野宿労働者総体に共通する問題として、すなわち全国争議として大阪から位置づけ得ず、朝日建設の釜ヶ崎登場から虐殺事件発覚に至るまでその跋扈を許してしまったことを寄せ場・野宿の現場に身を置く者として自省せざるを得ない。第三次反失業闘争を中心で担った深田さん(釜日労)に対する3・6弾圧と長期拘留、その後の弾圧裁判で権力に叩きつけた『冒頭陳述書』(1995年5月25日)の結びには、建労法体制下で奴隷労働的な「労働下宿制度」の拡がりに警鐘を鳴らし、「新たな闘い」への準備を呼びかけていた。まさに朝日建設のようなケタオチ暴力飯場の復活を予測していたわけだが、しかし、深田さんの警鐘はほとんど留意されることなく、反失業や反排除、生活保護要求など各個別課題へと闘争は収斂された。結果ここ10年、寄せ場・野宿現場でしっかりした労働争議を闘えてこなかったツケが朝日建設などの跋扈として表出した。多くの被害労働者が個々に声を上げ、自力自闘で闘い、孤立無援の中で釜ヶ崎の仲間2名を含む労働者の虐殺までをも許してしまったことは運動総体として真剣に総括されなければならない。「阿佐、お前だけは許さん!」殺された仲間のこの怨嗟の呻きを満身で受けとめ、釜ヶ崎パトロールの会、長居公園仲間の会、西成公園よろず相談所、高齢者特別就労組合準備会の諸団体が昨年10月26日に緊急会合をもって朝日建設争議団(大阪)の結成を決議し、東京の山谷争議団、渋谷のじれん、横浜の寿日労、名古屋の笹日労の仲間が結成して先進的に闘っている朝日建設争議団に合流した。
我々は朝日建設を単なるタコ部屋への一部回帰として捉えるのではなく、寄せ場・野宿労働者のみならず労働者総体を不安定な無権利日雇化していく大きな流れの中で転換しつつある日雇労務支配の一つの象徴的事例であると考える。新自由主義諸政策を推し進める国家・資本による剥き出しの言わばタコ部屋的労務支配と闘う労働者の階級的責務として朝日建設争議は位置づけられなければならないと考える。

★朝日建設争議団の闘い
 虐殺事件発覚までに各地で約360人(山谷90人、大阪180人、都留労基署86人)が不払い賃金を奪還し、直接取りに行って支払わせた仲間もいたという。大阪では180人が被害申請するという異常な事態にも関わらず、西成労働福祉センターは一貫して無策であり、大阪のあらゆる日雇・野宿者運動も朝日建設問題の実態把握を怠ってきた。そのため、積み残した未払い分を諦めたり、現場や元請・中請が不明でセンター窓口や朝日建設でハネられたり、朝日建設とつるむヤクザを恐れて労働相談すら来れずに泣きをみている労働者がその何倍もいると思われる。事件発覚後、特就労(準)を軸とする朝日建設争議団(大阪)のセンター朝情宣−木曜労働相談会の他、勝ち取る会の三角公園炊き出しや大阪各地のパトロール−寄り合いでの呼びかけ、越年臨泊受付にならぶ労働者に対する市更相前机出し労働相談などの取り組みの中で、現在に至るまで25名の被害労働者と出会い、うち10名がセンター窓口を通して都留労基署への申請を行った。
被害労働者を軸とした朝日建設争議団の取り組みは、重層的下請構造の下で朝日建設などの人殺し飯場を使ってきた元請・中請、それを放置してきた労働行政、未だ生き延びている朝日建設グループなどに対して、労働者の尊厳をかけて徹底的な争議を闘う途上にある。朝日建設問題と全国争議についての全国論議は活発に行われており、昨秋以降に朝日建設争議団の全国会議が6度開かれた。昨年10月21日の対都留労基署団交と旧朝日建設(現・稲村建設)での追悼行動を皮切りに、対上野労基署団交(同年11月13日)、日雇全協山谷総決起集会と対鉄建建設団交(2004年1月18〜19日)、対名工建設−大和開発団交(3月10日)、対東急建設・大成建設交渉および両本社前抗議行動(5月18日)、対諏訪重機運輸押しかけ抗議行動(6月29日)と朝日建設争議団としては計6回の全国争議を闘ってきた。大阪は第3弾から参加している。
まだまだ不十分な取り組みではあるが、一部のゼネコンに再発防止を誓約させ、実態調査と労災の認定や休業補償、不払い賃金の精算など労働相談で出会った被害労働者の権利を被害労働者と共に奪い返してきた。しかし、そのわずかな「勝利」を釜ヶ崎労働者やヤミ手配に日々さらされる公園、路上、駅の野宿労働者は我が事のように喜び、明日を生きる大きな励みになっていることも事実だ。現場においてそのことをヒシヒシと実感するし、同時に手配師や人夫出しに絶えず対峙するセンターや駅手配での緊張関係、その背後にあるゼネコンの意を受けた警察権力の争議介入、争議破壊を狙った政治弾圧(釜パト3・9弾圧)など、我々は決して負けられないギリギリの線での闘争を今後も続けていかなければならない。大阪では、以下4点の方針を設定して取り組みを継続している。@労働相談(被害や朝日建設情報の聞き取り、賃金請求手続き、争議の準備など)と現地調査、『白手帳』登録相談。A労働行政への要求(被害労働者への働きかけやヤミ手配の指導、センター登録業者や日雇雇用保険を使う業者の開拓など)。B朝日建設問題の社会化や共同戦線の追求。C日雇・野宿労働者が戦取してきた地平や権利と路上・公園・駅に拡がるケタオチの跋扈に対する防衛方法を記した『労働者手帳』の発刊などである。
朝日建設争議団は殺された仲間の怨嗟の呻きと向き合いながら、さらなる地平にむけてこれからも一歩一歩着実に前進していくだろう。

posted by kamapat at 03:21 | Comment(0) | TrackBack(1) | 朝日建設争議
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タコ部屋・・・
Excerpt: 同居2男性を一家で暴行、傷害容疑で5人逮捕1人補導 ・・・未だに、こういうタコ部屋ってあるんだなあ。朝日建設ってのもあったし。 つーか日本という国はたった60年ほど前には、国ぐるみでタコ部屋やって..
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